〜以下は、まったくのおまけ話で、全然パラとは関係ないエピソードです。〜 《途中下車・Melk》 Lackenhofを立って数時間後、列車は見覚えのある街に止まった。 Melkだ。空は完全に青空に変わり強い風が、白い雲を流している。あの修道院は、強い日射を受けてますます輝き列車のまどからも眩しい。 時刻はまだ2時前。この線でWien行きの列車なら1時間に1本くらいはあったはず。 『降りよう。』 このキップが途中下車有効かどうかは分からないが、そんなことはどうにでもなる。発作的に私はデイバッグを掴み列車をかけ降りた。 昨日、Hansと会った駅の玄関を抜け、私は目の前にそびえるベネディクト派の修道院へ向かって歩き出した。すぐ近くに見えるのに歩くと結構遠い。500-600Mはあっただろう。でも途中の観光客向けに整えられた石畳の商店街は、小洒落た感じでなかなかいい。街並みを楽しみながら歩くこと15分。坂を登ってようやく着いた。 修道院は、これが修道院?!と思うほど大きく明るく、そしてゴージャスだった。入場料を払わなくても十分楽しめるし、私は普段ならこの手の施設にお金を払って入ることはあまりないのだが、なにか心引かれるものがあり、入ることにした。 キリスト教関係の宝物展はともかく、なかの礼拝堂はとてつもなく素晴らしい。ウイーンのどの宮殿の華麗さにも優っている。60Mの高いドームは金の宝飾と陽光を透かす優しい絵で飾られ、礼拝堂の中心からそのドームを見上げていると、天に吸い込まれるような気がしてくる。その感じ。 急に天啓が訪れた気がした。神の権威と天国への憧れ。教理なんか知らなくても、文字が読めなくても、確かにそれが感じられる。そうだったのか。教会が一番立派なのはこの為なのだ。いままで、いろんな寺院仏閣に行って、どうしてこの感じが解らなかったの?唐突にその夏読み返していた『源氏物語』の法会の記述が頭に浮かぶ。その長く詳しい記述を私は何も感じず、客観的描写としてしか捉えて来なかった。 私がぼう然として礼拝堂に立ち尽くしていると、一人の大柄な初老の男が 「失礼ですが、日本の方ですか?」 と、丁寧な非常に聞きやすい英語で話しかけてきた。 我に返ってその男を見上げ、 「そう、日本から。この教会はすばらしい!こんなきれいな教会いままでみたことない。そう思いません?」 と、反射的に思いが言葉になった。男は意外そうに笑って 「おや、英語がうまいね。」 「ありがとう、でもまだ少ししか話せないのよ。」(さっきまでドイツ語なまりの英語に悩まされ会話し続けてたんだし、彼の英語が聞き取りやすかっただけだ。でもちょっと嬉しい) 「私はカナダからだ」(どおりでオーストリア人のドイツ語風英語より分かりやすい) 男は続けて 「日本には何度か行った。京都がいい。こことは違う美しさだ。全く違う。でもここも素晴らしい」 彼は自分が尋ねた京都の寺の名前をいくつかあげ、そうして彼の妻を手招きで呼び寄せ紹介してくれた。彼は純粋に日本びいきで、異国の教会に一人でいた、ちょっとかわった格好をした日本人に興味を示したとみえた。そして、とりとめのない旅の言葉を交わして別れた。 礼拝堂の正面にはラテン語の教え。何が書いてあるのか係の人に聞いた。 「正当な戦いなくして勝利はない」(多分こんな意味だと思う) 礼拝堂と同じくらい心引かれたのが、古い文書を収めた図書室だ。重厚に装丁され、堆く積み上げられた無数の書物に圧倒される。『薔薇の名前』に描かれた通り、彼らの書物・書かれた知識・真理にたいする情熱はすさまじい。床から高い天井までびっしりと整頓された本の隙間から古いラテン文字が無数の音となって染み出し、空間を埋めているようだ。 その図書室から、明るいベランダにでると、なんとも素晴らしく広がった景色が見渡せる。 眼下にドナウの流れ。その向こうに続く緑のなだらかな起伏。雨上がりの青空は澄み切って風が河辺の木々を揺らす。この景色をみるためだけでも、入場したほうがいい。中に入らず帰っていく人達に教えてあげたいくらいだ。この景色に接していながら『笑わないキリスト』なんて禁欲的なことがどうして言えるだろう。幸福な気持ちに満たされた。 私は非常に満足して、修道院を出た。駅までの途中の坂道にごく普通の協会があり、その横がちょっとしたベンチと木陰で気持ちよげなスペースを作っている。サラリーマン風の男が一人ベンチに腰掛け本を読んでくつろいでいる。私もここで列車待ちの時間をすごさせてもらおう。ザックを開け、朝食のテーブルからいただいてきたパンとミネラルウオーターを引っ張り出し、午後遅いランチを楽しんだ。 《ウイーンへの帰還》 Melkからウイーンのホテルに戻ってきた。配偶者はもちろん仕事に行っている。帰ってきたら何から話そう。夕方の薄暗いホテルのベッドに寝転び、私は彼の帰りを待った。 《書き切れなかったこと》 地下鉄の入り口を教えてくれたOLのお姉さん・ウイーン西駅で列車の時刻を調べてくれて、乗り換えの注意まで教えてくれた案内のおじさん・リフトを降りるとき手を貸してくれて、ザックを背負わせてくれたおじさん・一人で食事している私の横を通る時「Guten Appetit」と言ってくれたおばあさん達・支払いの時まちがって多く出したのをちゃんと教えてくれたレジのおばさん・修道院で団体客に英語で解説をしていたガイドの人、団体客に混じって一緒に聞いちゃいました…. 《後日談》 この話には続きがあって、実は私は借りたパラザックに入れておいた自分のパラ道具(ヘルメット・バリオ等)をMichaelの車に積み込んだまま忘れるというドジを踏んでいる。 ウイーンに戻ってから慌ててハンスに電話し、滞在していたホテルまで送ってもらったのだが、荷物の到着は出発の日には間に合わなかった。ホテルに転送を頼んだのだが日本への送付は断られてしまい、送り主(ハンス)への返送を承諾してもらうのがやっとだった。 帰国してから、もう一度事の顛末をフレッド・ダンネベルグにメールで知らせ、彼らのほうから再度日本へ送ってもらうというドタバタをやってしまった。ヘルメット・バリオは持ち主より3ヶ月程遅れてようやく帰国した。 送られてきた段ボールの箱を開けると、それはそれは丁寧で完璧な梱包が施されていた。バリオの電池まで抜いて別に梱包されていた。きっと『手間のかかる迷惑な日本人』だと思われただろうな、感謝の念とともにそんな気持ちがふっと頭の中をよぎった。 荷物が届いて数日、街はすでにクリスマスセールの季節。私はクリスマスカードとちょっとした和菓子を3人に送った。そして5日後、フレッド・ダンネベルグからメールがきた。 Dear Yasuko! Thank you very much for your sweeties and the card. I ‘ll give it to Hans and Michael as soon as possible. Have a good time − may be see you next year in Austria. Bye Fred Danneberg また行ってもいいんだ!今度はMichaelやFredと一緒に飛べるといいな。そうだ、その時はトーイングにトライするのもいいかも。今私は次の計画を練っている。 (2000年12月) |