《ウイーンの近くでエリアを探せ》


もとはといえば、それは私の勘違いから始まった。

「9月に学会でウイーンに行くんだけど、一緒に行く?」と配偶者が言い出したのは5月だった。思えば結婚して5年間、毎年夏休みには一人で飛びに行ってしまい、ともに過ごしたことは一度もなかった。これを断っては夫婦の危機、と思ったのも嘘ではないが、ホントのところは、今年もヨーロッパフライトだ!もくろんだのだ。そう、私はヨーロッパはどこもかしこも3000m級の山が連なるアルプスだと思い込んでいた。でもその勘違いを責めないで欲しい。私は過去2回ヨーロッパへ飛びに行っているが、山以外のところへ行ったことがなく、都市観光は一度もせず、だからヨーロッパは全部エリアだと信じきっていたのだ。

そんなわけで、すっかり飛べる気で、今年は8月に夏休みをとらず、国内で飛びにいく計画も立てずひたすら働いていた。

さて、9月も近づき具体的にどこに飛びに行こうかと考え始めてみると、ウイーンから知っているエリアまでは意外と遠いのである。こりゃ、うち(神奈川県)から北海道や九州に行くのと変わらない、交通費もばかにならないし移動時間がもったいなあと考え直しはじめた。でも8日間ずっとウイーンにいるのもつまらないし(私は都市観光に興味がないのだ)、どうしたもんかなあ…そうだ、ヨーロッパエリア事情に詳しい鈴木さんに聞いてみよう、きっとウイーンから行けるお手軽エリアを教えてくれるに違いない、と普段の不義理の後ろめたさに目をつぶり問い合わせのメールを入れたのだった。


情報通の鈴木さんからは、こちらが申し訳なくなるほど親切な情報が返ってきた。でもウイーンからふらっと行けて日帰りできるところがあるかといったらそうではなかった。鈴木さんがお勧めのザルツカンマーグートのエリアは、私も心が動いたが、電車とバスを乗り継いで行くことを考えると移動に5時間以上はかかりそうだった。でもここであきらめたら飛べない。鈴木情報の中でウイーンから一番近そうなエリアを選んで調べてみることにした。

鈴木情報によると、そのエリアの名前はLackenhof。山の名前はOetscher。電話番号もあったが、先方が英語が通じるとは限らないし、第一私の英語力は電話には耐えられない。(そんなんで一人で飛びにいっていいのか?)でも今回は、機体を持っていけない(なぜならまともな服とか靴とかパソコン等必要な荷物がいっぱいなのだ)、車がない、単独、等厄介な条件をクリアしないと飛べないから、どうしても事前の交渉が必要だ。なんとか、もっと詳しい情報と、直接コンタクトがしたい。その夜から、インターネットでの情報検索を開始した。



《Lackenhofからのメール》


日本語のサイトには目ぼしいものが見つからず、英語のサイトに切り替え検索。Lackenhofの村の名前でいくつかのサイトを引っかけた。どうやらそこは小さなスキーリゾートであるようで、夏にはマウンテンバイクの草大会が行われる。その大会情報から、Lackenhofの観光協会(?)のサイトに行き当たった。ドイツ語と英語の表示の切り替え可能なサイトで、観光案内にパラの写真もあった。最後にe-mailのアドレスがあったのでさっそくメール。

『私は日本人のパラグライダーフライヤーで、近々そちらに行って飛びたいのですが、単独なので助力して欲しい。そちらのスクールで機材一式をレンタルし、当日フライトのアドバイスがしてもらえるでしょうか』(あまりにお粗末な英語なので原文はパス)

すると、翌日さっそく返事が来た。

『当村のハング&パラスクールで必要なものはすべて用意できると思います。スクールに連絡してみてください』

そこには、e-mailとホームページのアドレスが記載されていた。
ホームページはドイツ語表記でまったく読めず、写真から想像をめぐらすのみであったが、ちゃんとしたスクール活動をやっていることがみてとれたのでひと安心。

『観光協会から紹介されてお手紙します。私は、機材もないし、車もないし、ドイツ語はまったく分からないし、英語もあやしいけど、どうしても飛びたいのでHELPしてください。パラの経験は8年あるのでその点は大丈夫。4年前にチロルに飛びに行って、オーストリアの風景がとても好きになったのです。』
なんというわがままな手紙。しかもスペルミス、文法ミス満載の英語。こんなものを出していいものかとも思ったが、言いたいことは伝わるはず、と送信。

どきどきしながら待つこと3日。待望のwelcomeの返事がきた。
『どうぞ心配なくきてください。スクールの1日コースに入れば機材も全部準備できます。
費用は1日目は1200ATS(約11000円)、2日目以降は800ATSです。電車でも来られますが、数日前に電話をくれれば、友達が迎えにいけると思います』

やったね!これで決まり。私はウイーンから飛びに行く。(配偶者は仕事をさせとけばいい)後は天気。天気しだいだ。
この後、パラスクールのホームページからリンクしているオーストリアの気象情報ページを毎日チエックすることになる。



《ウイーンに着いてから》


ウイーンに着いた次の日の朝、私はメールをくれたFred Dannebergに電話をする。
英語が通じるか心配だが、凡そのことは伝えてあるし、英語が下手なことは言ってあるからなんとかなるだろう。



ベルが鳴る。誰かが受話器をとる。ドキドキ。
「Hello! This is Yasuko Tamura.」受話器の向こうで中年の男が困ったように「Oh、英語だ、英語は分からん。」ドイツ語でそんなようなことをつぶやき、誰かに電話を替わろうとしている。次に出てきたのは女性で、後ろで子供の声がする。どうやら自宅の電話らしい。女性にFred Dannebergをと頼むと通じたらしく、ようやく彼の登場。ドイツ語なまりの英語はちょっと聴き取りづらいがなんとか会話が成立した。今はスクールは週末しかないので次の土日はどう?と言われたが、私は次の日曜には帰りの飛行機に乗らなくてならない。そういうと、困ったような感じで、今週は天気があまりよくないので飛べないかも、スクールもないし…としばし悩んだ後、でもなんとか最善を尽くしてみよう。明日朝8時半にもう一度電話して、とのこと。うーんこれは難しいかなあ。確かにウイーンも今日は曇天。まあこればかりは仕方ない。パラが天気次第なのは全世界同じ。とにかく明日だ。

翌日、一応出かける準備はして電話する。今度はすんなり電話が通じる。
「天気が怪しいし、○○だし(よく分からなかった)もう一度30分後に電話して」 
やっぱりだめなのかな、なんか都合悪そうだったし。ちょっとがっかりして30分待つ。
「Hi Yasuko! Good Newsだよ。Lackenhofはなんとか飛べそうだ。今から出られる?今晩は泊まるんだよね?」
「ホント!もちろん!すぐ出るわ」
「宿はどんなタイプがいいの?ホテル?ペンション?ガストホフ?」(そんなもんなんでもいいんだけど, 私は)
「どれでもOK、でもチープでクリーンだといいな。」
「Good.じゃあ今からMelkへ行って。僕の友達のHansがMelkの駅に迎えにいく。Melkまでは西駅から電車で1時間20分くらいだよ。今Hansは携帯で君の電話を待ってるからすぐ電話して。」 
Melk?わりと観光客に知られた街だがLackenhofとはかなり離れている。そこにもエリアがあるのか?
事情がよく分からないが、とにかくそのHansへ電話する。
「Melkは大きな街だよ。駅に着いたら電話して、すぐに迎えにいく。」

そうして私は仕事に行った配偶者に書き置きを残し、ウイーンを後にした。
 『どういうことになるか分かりませんがMelkへ行きます。今夜はたぶん帰りません。』



《MelkからLackenhofまで》


ホテルを出て、地下鉄でウイーン西駅へ。国鉄に乗ってMelkへ。
時刻表の見方、長距離列車の切符の買い方、出発ホーム。よく知らないが行けばなんとでもなるだろうとタカをくくって、あちこちの窓口でExcuse me?を連発しながらようやくMelk行の列車に乗り込む。電車が1-2時間に一本程度しかなく、気は急くのに1時間以上も待つことになったがでもこれで一安心。昼前にはMelkに着けるだろう。


時差ボケとドキドキで夕べはよく寝られなかったけど、たしか日本と違って電車で寝ちゃいけないのよね、なんて思いながら初めてのヨーロッパ電車初体験。(いままでずーっと車で移動してたから一度電車に乗ってみたかった)コンパートメントはとても機能的できれいで満足満足。途中から乗ってきた現地人の乗客に、グリュッツイと挨拶すれば気分はすっかり『世界の車窓から』。

Melkの駅に降り、公衆電話からHansに電話すると、10分で行くとのこと。思ったより小さい駅で人も極端に少ない。これなら東洋人一人どうしたってみつけられないことはない。

駅からの風景はとても印象的だ。風に揺れる緑鮮やかな木々と、古い小体な街並みの向こうに『薔薇の名前』の舞台のモデルとなった壮麗な修道院。石畳の道がまっすぐその修道院に向かって延びている。



7-8分して古く小綺麗な街にあまり相応しくない、めちゃめちゃ古いスバルが現れた。ハング用のキャリア(?)が着いている。間違いない。あの車だ。こちらから近づいていくと、いかにもフライヤーといった感じの20代後半?30代の男性が降りてきた。とてもにこやかに歓迎の挨拶をしてくれたのでホッとする。スバルの後部シートには、どういう関係なのかは不明だがフライヤーにはみえない女性・シルビアが乗っていた。

お世辞にもきれいとは言えない車に乗り込むと、いつものフライトツアー気分でなんだか落ち着く。汚い車に安堵するとは我ながらおかしなもんだ。Hansが「ちょっと途中寄り道してもいい?小さな男の子を一人ピックアップしたいんだ」と聞く。「もちろん。で、いくつの子なの?その子も飛ぶの?」尋ね返す とこの夏パラをはじめて、今日はタンデムすることになっている12才の子だという。今日は夏休み最後の日なのだそうだ。



観光地でもなんでもない長閑な田舎の風景が続く。山のないヨーロッパの風景も悪くない。ゆるやかな丘陵地帯の細い道を走り、小さな集落の外れのリンゴ畑のある家の前で車は止まった。男の子が庭で遊んでいる。その子の家なのだろう、と思って車を降りずに待っていたら、Hansが降りて、と手招きした。庭に面し開け放たれた 涼しげな納屋のようなところで、初老の夫婦が食事中だった。Hansが僕の両親だよ、と紹介してくれた。
「エー、じゃここあなたの家なんだ」
どおりで納屋の隅にはモーターパラらしきものや、ハングの部品らしものが転がっている。彼のご両親は英語をまったく解さないらしいので、とりあえずご挨拶だけドイツ語でして、あとはHansにお任せ。一緒のテーブルに着くとお母さんが、リンゴの炭酸入りドリンクを持ってきてくれた。シルビアが、
「彼のお母さんの手作りなのよ。どう?」
と教えてくれた。どうやらリンゴ農家らしい。お母さんは一度台所に引っ込むと、私にも自分達がが食べているのと同じものをランチに出してくれた。これがじつに不思議な感じのする食べ物で、粉のぷちぷちの感じが残るあまり甘くないクッキーを細かく砕いたものと、砂糖を混ぜて所々焦がしてみました、といった、ちょっと説明に困るシロモノなのだ。それが皿一杯分、シリアルみたいに盛ってある。食べてみると意外とおいしい、でも昼飯に甘いもの皿一杯はつらいな。もう一つ、小さなガラス鉢には、何かで煮たリンゴが盛られていて、こっちは酸っぱめで甘くない。両方でちょうどいい感じ。でもこの主菜はいったい何?と尋ねると「○○○、セモリーーーナ」という。セモリナ粉であることは分かったがそれ以上は不明。シルビアは、その上にさらに砂糖をかけている。まったくこの国の人の甘さの感覚はどうなっているんだか。そういえば昨日の本家ザッハトルテもむちゃくちゃな甘さだった。



英語を解さないお父さんは、日本人が珍しいらしく(当たり前だ。うちにだってペルー人がきたら珍しがられるだろう)一生懸命なにか質問してくる。Hansが通訳してくれる。 TOKYOにはどのくらいの人口がいるんだとか、どのくらいの広さなのかとか、私の家はTOKYOから何キロくらいかとか、あるいは日本からここまでは何キロなのかとか。残念ながらまともに答えられる質問がない。不思議だ。よく考えてみれば私は自分がすんでいる国のこと・地域のことを何も知らない。ごめんね、お父さん、今度来ることがあったら答えられる様にしておくから。